「通弁」クリエイティブ・ライティングコラム
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 日本語vs英語(その1) >> 日本語はどこがあいまいなのか?

あいまい毛布が心地よい(?)日本語の曖昧さ
今でこそ、ビジネスの世界などでは「あいまい」はよくないことだとされていますが、日本人として思うのは、この「あいまいさ」というのは、温かくい毛布にふわっと包まれているようで非常に心地よいのではないかと思うのです。

「あいまい」にしておけば、複雑でめんどうな頭脳労働をしなくてすむわけで、ほんわかと存在していればいい。しかも、自分ひとりだけじゃない。あの人もこの人もみんな、同じ大きな毛布に包まれて、同じようにふんわり生きている集団。同じであることが心地よい。みんないっしょだから安心。自分たちを統括する偉大な存在に逆らわず、集団からはみ出たり、波風立てるようなことをしなければ、この温かい共同体という毛布のなかにずっといられる。みんな同じ考え方だから相手が何を考えているのかもわかる。もうそこには、言葉も討論のテクニックも要らない。ただ、まわりのみんなが何を考えているのかを知るための感覚や感性を高めておけばいい…。

日本人は、長い間、こういった世界に住んでいたのではないかと思います。そして、日本語は、日本人が使ってきた言語です。あいまいでないのがむしろおかしいのではないでしょうか。したがって、日本語のどこがあいまいとか、日本語をあいまいに使うといった発想自体が不適切かもしれません。日本語そのものがあいまいな言語なのです。

ともあれ、こうして、「あいまい毛布」に包まれて心地よく(?)暮らしていた日本人が、いきなり西洋世界と遭遇します。いわゆる開国です。それから100年以上たった今、日本人は、国際社会において、本当の意味で、あいまいさのない明確なコミュニケーションの必要性に迫られています。いよいよ、温かい「あいまい毛布」を脱いで、北風の吹く戸外へ出て行くことが求められているのです。日本の社会においても、終身雇用制や年功序列といったやわらか毛布が次々と剥ぎ取られているのも事実です。

しかし、またもや日本人として思うことは、この「あいまい」であるということは、果たして悪いことばかりなのだろうか、ということです。確かに、「あいまい」にしておくことでハードな頭脳労働から開放されるという消極的な利点もありますが、それは知的な活動を放棄するということではないと思うのです。ハードな頭脳労働というのは、たとえれば、肉体労働のようなもので、知性のほんの一部を使っていることにしかならないと思います。

「あいまい」だからと言って、それは決して知性が低いということではない。知性のより高い次元は「知識」ではなく、「知恵」だと言えます。問題を解決するのは知識ではなく、知恵です。そして、知恵とは、見えない、暗黙の領域にあります。つまり、あいまいな領域にこそ、知恵が存在するわけです。知恵が明確に定義されると、それは、万人の共有するところとなり、知識となります。よって、ある意味では、「あいまい」領域は、言葉や理屈を超えたより高次元の知的活動の場であると言えるかもしれません。

個人的には、日本人としての良きあいまいさを失いたくはありませんが、国際社会に向けて、英語でコミュニケーションをしていく場合、どうしても避けて通れないのが、この「あいまいさ」をいかに「明確なもの」として転換させていくかという点です。なぜなら、日本語があいまいなのに対して、英語という言語は「明確」そのものだからです。モノを「定義」する言語とも言えます。

よって、日本語のあいまいさをそのまま横展開しただけのものは、極端な言い方をすれば、本当の「英語」ではないと言えるのではないかと思うのです。あいまいな日本語の文章を明確な英文に転換するためには、それこそ、「あいまいに」流してしまうのではなく、あいまいな日本語の本質を捉え、最適な英語表現に置き換えていく必要があると考えます。

以下、日本語の「あいまい」特性と思われるものをいくつかピックアップしてみましょう。

●「赤い花なら曼朱沙華」
これは、言うまでもなく、「たとえばここにある花があって、それが赤い色ならばそれは曼朱沙華でしょう」という意味ではなく、「赤い花の話をするなら、曼朱沙華(が○○だ)」ということであり、「主題」ありきの日本語と「主語」ありきの英語で述べた「トピック・コメント型」の文章構造の1種だと言えます。これを英語で表現する場合は、省略された「が○○だ」の○○の部分を想定して訳出する必要があります。たとえば「美しい」と言いたいのかもしれないし、「好きだ」と言いたいのかもしれません。しかし、ここで留意すべきことは、日本語は往々にして、主観的な感性をあたかも客観的であるかのように表現することがある、ということです。

清少納言の「枕草子」の「春はあけぼの」も上の例と同じパターンですが、その顕著な例と言えます。「あけぼのがいい」というのも、それはあなたが(勝手に)そう思っているだけでしょうということになります。一方、英語では、美しさといった主観的な考えを、一個人が「最も美しい」などと決めることはできないので、「自分が最も美しいと思うのは曼朱沙華である」といった概念で表現する必要があるのです。

●「自慢じゃないが、成績は良かった」
人はとかく昔の栄光などを語りたくなるものですが、そんなときに前置きするのが、この表現です。「自慢じゃないが…」と言いながら、その中身はたいてい自慢だと言えますが、まず、こういった前置きをする背景には一体どのような心理的働きがあるかを考えてみましょう。すると、それはたいてい、日本では「謙譲の美徳」というものがあるため、おおっぴらに自慢するというのは洗練されていない粗野な印象を与えるだろうと考えることができます。つまり、「また部長の自慢話が始まったよ」といったことになるわけです(この前置きを使ったところで、自慢話だと思われることは避けられませんが)。

これを英語化する場合、方法はいろいろあるかもしれませんが、文字通りに「自慢じゃない」と解釈して、たとえば、「私はたまたま運が良かったのだが」といった表現に変えてしまうというのも一つだと思います。実際、英語圏の人と話していると、「たまたま、ラッキーだったんだよ」というようなことを言う人が多いようで、英語圏の人の「謙虚さ」の1つは、「運が良かった」と認めることかもしれません。もうひとつの手法は、いっそのこと、「自慢」であると潔く認めたうえで、「自慢するのは嫌いだが」という表現にすることもできます(しかし、この場合も、嫌いだと言いながら、目を輝かせて楽しそうに自慢しているわけです)。

また、同じ「~じゃないが」という表現ですが、こういう場合はさらにあいまいになります。たとえば、「小泉さんじゃないが、感動した」など、他人を引き合いに出す表現法です。だいたい、なぜ、ここで唐突に「小泉さん」が出てくるのかということも疑問であり、日本語はあまり主語を用いないため、この「小泉さん」じゃないとは一体誰のことなのかということにもなります。

話者本人であるとしても、本人が「小泉さん」じゃないということは誰もが承知しているわけで、この背景にあるのは、安易に「小泉さん」の真似をしていると思われるのは格好悪い、という心理が感じられます。この場合も、「小泉さんの真似をするのはイヤだが」といった表現に置き換える、あるいは、「小泉さんの言葉を借りれば」といった表現にすることが可能です。このように、何かを補って英語化しなければならないことが多々あるのが日本語表現の特徴のひとつでもあると言えるでしょう。

●「あの件、どうなりました?」
「ツーカー」の関係などと言いますが、あれ、あの、それ、その、といった「こそあど」言葉がよく使われるのも日本語です。「あの件」などと言われると、聞いているほうも「ああ、あの件ね」と、とっさにどの件だったか推測する必要があります。たいていは、相手とのかかわりや状況などで「どれ」とわかる場合が多いのですが、たまに、まったく違う話をしていたということもあります。

また、「大阪人のノリとかいうあれですか」とか、「何度も使えてお得だというあれですね」という場合の「あれ」もあります。こうなってくると、日本人というのは本当にはっきり言いたくない国民なのか、それとも、ふと適切な言葉が見つからなくなるのか、聞き手に推測してくれることを期待する「甘え」というものが感じられるのです。最近ではあまり聞きませんが、夫が妻に「おい」と言えば、その場の状況に合わせてお茶や新聞が出てくるというような例は、それこそ「甘えるな」と言いたくなる例かもしれません。

その他、「いや、○○さん、これはこれは」などというのもありますが、これをこのまま、「ミスター・○○、ディス・イズ、ディス・イズ」などと横文字になおしたところで、何のことかさっぱりわからないのは当然のことです。あるいは、ベーシックなご近所さんとの会話で、「どこまでお出かけ?」「ちょっとそこまで」というのもあります。

「ちょっとそこまで」では、答えになっていないわけですが、この場合、質問したほうも具体的な目的地を聞いているわけではなさそうです。ご近所として、遠くまで行くのか、近くですぐ帰ってくるのか、あるいは、何か緊急な用事ができて、近所として手伝うなどの必要があるのかどうかを確認しているだけだと言えます。だから、「ちょっとそこまで」と言われれば安心して「あ、そうですか」となるわけです。

大阪の商人の「もうかってまっか」「ぼちぼち」なども、たとえもうかっていても、相手の状況がわからないから気を使って「ぼちぼち」と言っておく。相手も、倒産などしたということでもなさそうだ、と受け取るわけです。ちなみに、最近では、「ぼちぼち」ではなく、「いやあ、あきまへんわ」という答えも多いようですが…。

●「どうも」や「すみません」
よく日本に住んでいる外国人などが感心するのが、「どうも」という万能用語。軽い謝罪や感謝、ひいては、挨拶などにも使える便利な言葉です。当然、英語化する場合は、その内容を汲んで処理する必要があり、これなど、翻訳者の分際で勝手に判断するなと言われても、そんなことを言うほうがナンセンスということになります。同様に、「すみません」も謝る場合、感謝を表す場合のどちらにも使えます。もっとも、いつもの感覚で、外国人相手に「アイム・ソーリー」を使って責任を取らされることになったというのはよく聞く話です。

●「~と思われます」
「~と思われる」、「~ではないかと言える」といった語尾を濁らせる表現も豊富です。それまでは、とうとうと自分の考えなどを述べていて、文章の終わる段階になると、「…と思われます」というのです。責任逃れをしているのではないか、と言われてしまいそうですが、はっきり言って責任逃れをするという心理が働いているのだと思われます。

日本社会というのは、どちらかというとクローズドな世界で、ひとつの共同体としての均衡を保つためには、リーダーは別として、他の構成員たちは皆、横並びに対等である必要があります。一人が抜きん出ているといった印象を与えてはいけないので、自分の意見や発言などを「たまたま、このような考えが浮かんでまいりまして…」といったスタンスにする必要があるのではないかと思うのです。

そうしないと、「なんだ、アイツは偉そうに」などということになり、ねたみを買うことにもなり、ねたみを買えば、「村八分」にされかねないので、そういった事態が起こらないよう前もって対処しているわけです。よく、「お宅のお子さんは優秀ですね」と言われて、「いや、できが悪くてね」などというのもこれに似た心理でしょう。

「私の考えていることなんてたいしたことないですよ」ということで、自分はみんなと同じなのだということを言うのです。そういう理由からか、日本人の会話にはうわさ話の類が多いと言われますが、うわさ話というのは、みんなが横並びで参加できる次元の話だからではないかと思います。

いずれにしろ、こういった語尾を濁らせる表現は、それ自体、日本語らしい表現として定着しているため、それを使わないで表現するというのは、かえってむずかしいのです。どうも、居心地の悪い、不自然な日本語になるからです(筆者もここで多用していますね)。もちろん、英語化する場合には、I think だとか、It seems... などという表現を多用すると、自信を持って自分の意見を発言することをよしとする英語圏では、まともに取り合ってもらえないかもしれません。こういった日本語のクセのような部分までを訳出するのは、かえって逆効果だと言えます。

その他、ちょっとおどけて、「キミ、そんなことじゃ世の中には通用しないよ、…なんちゃって」とか、最近ではすっかり市民権を得た「それ、○○××じゃない、みたいな…」というときの「みたいな…」なども同じ心理が働いているのではないでしょうか。


参考:中公新書 『日本人の発想、日本語の表現』 森田良行著 | ちくま新書 『戦略的思考ができない日本人』 中山治著 | 講談社選書メチエ『日本語に主語はいらない』 金谷武洋著 | 岩波新書『日本語』新版(上下) 金田一春彦著 | 講談社現代新書 『日本人の言語表現』 金田一春彦著 |

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