Last update April 13, 2015


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乙訓寺 用語集
OTOKUNI TEMPLE





A Shrine Honoring Michizane, Patron of Academy
Leisurely Strolling Around the Site, the Tragic Talent of the Era Spent His Youth


乙訓寺

Otokuni Temple
アンタ、知ってた〜っ?この漢字って近所に住んでいる人しかなかなか読めないわよねー。「おとくに」って読むんだけどさ、なんで「おとくに」よ、って感じ。ま、いろいろ説があるらしいけど、なんでも、昔、葛野(かどの)って郡があってさ、そこから分離させてもうひとつ郡を作ろうかってことになったらしいのね。そのときにさ、じゃあ元からある郡のほうを「兄国」ってして、新しい郡を「弟国」にしようかってことになったらしいわ。でもさ、「おとうとのくに」というのじゃちょっと長いし、発音しにくいわよね。ま、そんなことがあったのかどうかわかんないけど、それが詰まって「おとくに」になったってわけ。別に「親国」と「子国」とか、「姉国」と「妹国」でもよかったんじゃないかしらんと思うんだけど。

乙訓寺は真言宗豊山(ぶざん)派のお寺で、別名「牡丹(ぼたん)寺」とも呼ばれてるわよ。確かに、牡丹はすごいわよ。 でさ、この乙訓って地にはなんと弥生時代(紀元前3世紀〜3世紀)ごろから人が住んでたんだって。すごいわね。弥生式土器を使ったり、お米なんかも作ってたのかしらん。古いだけあって、あまり知られていないお寺にしてはけっこう歴史があるのよね。ちょっと年表風にまとめてみたわよ。

A few Japanese people, except the local residents, would know how to read the temple name in its Kanji characters, which are used to represent unusual phonetic values. A legend explains the origin of the name like this:
Once there was a county, out of which people one day decided to make a new country, and named the new one "Ototo" (literally meaning "younger brother") comparing the original the older brother ("Ani" in Japanese). Thus, the former was referred to as "Ani Kuni" (Kuni: country or county) while the latter, "Ototo Kuni," which was contracted to become "Oto-Kuni." The Chinese characters presently used used are semantically irrelevant to the original meaning.

The temple belongs to the Buzan School of the Shingon Denomination. Renowned for its magnificient peonies in spring, the temple has the alias of "the Temple of Peonies."

継体天皇518年
第26代継体天皇が都を弟国(おとくに)に移す。

Year 518
The 26th Emperor Keitai moved the capital city to the County of Otokuni.
そのときの宮殿跡がこの乙訓寺の地じゃないかって言われてるらしいわ。
A record says the imperial palace for Emperor Keitai was located on the present Otokuni Temple ground.

603年頃(?)
聖徳太子が推古天皇の勅願で乙訓寺を創建。

Year ca. 603
Prince Shotoku constructed the temple following the edict of the 33rd Emperor Suiko.
太秦の広隆寺が603年に建てられたのと同じ頃に建てられたんじゃないかって言われてるんだって。太秦って言えばさ、アンタ知ってた?映画村があるとこよ〜っ。マツケンサンバなんかも見れるかしら。

でね、寺伝によると、乙訓寺は第33代推古天皇の勅願によって、聖徳太子が建てたことになってるらしいわ。それを裏付ける事実として、発掘の結果、法隆寺と同じ高麗尺(こまじゃく)が使われてるってことよ。法隆寺って言えばさ、もち、聖徳太子が建てたお寺よ。それからさ、乙訓寺が建てられたときの本尊は十一面観世音菩薩だったんだって。今は違うけどさ。

それでさ、推古天皇(在位592〜628)ってのは日本で初めての女帝で、その摂政を務めていた聖徳太子はその甥なのよ。

The construction of the temple presumably coincided with that of Koryuji Temple in Uzumasa (in the southern Kyoto).

According to an archaeological study, the temple was constructed using the ancient Korean measurement system, which was also used for Horyuji Temple in Nara (also built by the same prince). Emperor Suiko was the first female emperor in Japan, and Prince Shotoku, who served as the regent was her nephew.

The principal image of Otokuni temple in those days was the Avalokitesvara (Eleven-faced Bodhisattva).

延暦3年(784年)
第50代桓武天皇が長岡に遷都。

Year 784
The 50th Emperor Kammu moved the capital city to Nagaoka.
そのときにさ、乙訓寺を大増築したんだって。増築後の境内は南北百間以上もあって、講堂なんか九間に四間の大建築で難波京(なにわきょう)の大安殿と同じ規模、なんて言われてもピンと来ないわよね。

一般的には一間は1.8メートルなんて言われてるけど、社寺なんかの建物は寸法としてじゃなく、柱と柱の間を一間って呼ぶらしいわよ。

難波京ってのは、今で言う大阪のあたりで、文字通りそこに建てられた都。歴史でも習った「大化の改新」の直後に第36代孝徳天皇が飛鳥から難波へ遷都。それから、第40代天武天皇のときに宮殿が火事で焼けてしまったので、その孫の第45代聖武天皇が再建。で、焼ける前の宮殿を前期難波宮って言ってさ、再建後のを後期難波宮って言うんだって。

でね、「大安殿」って言うのは、「大極殿」とも言って天皇の即位とか祝賀などの儀式が行われる場所のこと。ちなみに、後期難波宮の「大安殿」跡は、東西27メートル、南北12メートルだったらしいわ。当時の乙訓寺の全体の規模は東西327メートル、南北218メートルで、現在の6倍もあったんだって。

The temple underwent a major extension construction at the occasion of the capital transfer. The enlarged temple premises measured 327 meters from the east to the west, and 218 meters from the north to the south (six times the present size). The ceremonial hall alone measured 27 meters by 12 meters - approximately same as that of the Great Imperial Hall of the later Naniwa Palace.

The later Naniwa Palace was located in the ancient city of Naniwa, presently Osaka today. The city was built by the 36th Emperor Kotoku, who moved the capital city from Asuka, Nara, shortly after the Great Reforms of Taika Era. The early Naniwa Palace was burned by the fire during the reign of the 40th Emperor Temmu, and his grandson Emperor Shomu (45th) reconstructed the palace (referred as the later palace).

延暦4年(785年)
桓武天皇が皇太子の早良(さわら)親王を幽閉。

Year 785
Emperor Kammu confined Prince Sawara in the temple.
早良親王というのは、桓武天皇の弟で、皇太子。なんで幽閉されたかって言うと、天皇の信任篤(あつ)かった藤原種継が暗殺されちゃってさ、どうもその暗殺に加担してたんじゃないかっていう疑いがかかったわけね。

早良親王は断食して無実を主張したんだけど、結局、淡路島に島流しになってさ、その途中で死んでしまったのよ。なんか、可哀想ねえ。ほんとに無実だったらどうすんのよ!

早良親王の死後、悪いこと続きでさ、天皇のお母さんが亡くなるし、皇后も亡くなる、皇太子も重病になるわ、疫病が流行る、天変地異が起こるとかでね、さすがにこれは早良親王の祟りだ、てなことになったのか、朝廷は早良親王に「崇道天皇」という名前を追号し、お墓も奈良に移したりして恨みを鎮めようとしたらしいわ。

昔の人って災害とか悪いことが起きると、たいてい誰かの恨みとかで解決したのよね。今みたいに岩盤がどうのとか、プレートがどうしたってことはわからないから仕方ないけど。

Sawara was Kammu's younger brother and the Crown Prince. When Fujiwara Tanetsugu, a government official fully trusted by the emperor was assassinated, Sawara was suspected for involvement in the incident and was confined in the temple. He protested his innocence by fasting, but despite his effort, he was sentenced to an exile in Awaji Island. On his way to the island, he died in despair.

After his death, unfortunate incidents happened one after another. Both the emperor's mother and his empress died. The new Crown Prince became ill and epidemics and natural disasters hit the capital. All these misfortunes were attributed to Sawara's resentment, and the emperor endowed him with the posthumous name of " Emperor Sudo" and moved his tomb to Nara from the exiled place.

弘仁2年(811年)
弘法大師が乙訓寺別当に就任。

Year 811
Buddhist Master Kobo became the Head Priest of Otokuni Temple.
弘法大師ってアンタ、知ってる?「弘法も筆の誤り」とか言ってさ、意味はまあ、言ってみれば「サルも木から落ちる」ってのと同じだけど、弘法大師はすごく字がうまかったんだって。それでさ、弘法大師だって間違うこともある、つまり、完璧な人はいないってことの例えね。確かに、何か失敗したときなんかに便利ななぐさめ言葉よね。

弘法大師って言えば「空海」のことで、いっしょに唐に渡った有名なお坊さんに「最澄」(伝教大師)って人がいたわよね。つまり、空海は真言宗、最澄は天台宗を開いた人よ〜。でもさ、最澄さんのほうは忙しかったのか、唐にいたのは短期間だったのね。逆に、空海さんのほうは長く滞在してたので日本に持って帰った仏典もびっくりするほど多くてさ、最澄はこの乙訓寺に訪ねて来て、空海に真言の法を伝授してくれるように頼んだんだって。

やっぱ、「急がば回れ」って言うか、物事をなし遂げるためには短期間でやろうってのはむずかしいってことね。英語の上達なんかでもさ、「○ヶ月で完全マスター」なんてあるけど、アタシに言わせりゃ「あり得ない」ってことね。だからさ、アンタもあせっちゃダメよ。

Master Kobo (Dharma name: Kukai) is the founder of the Shingon Denomination. Master Saicho (also called Denkyo), Kukai's rival and contemporary priest as well as the founder of the Tendai Denomination, visited him at Otokuni Temple to ask for the initiation into esoteric Shingon teachings, which Saicho didn't have the chance to master.

Both priests visited China in the same delegation to learn Buddhism to the depth. However, Saicho's stay was shorter than that of Kukai, and therefore, the depth of understanding as well as Buddhist scriptures he brought back to Japan fell far behind Kukai's achievement.

Kobo was also a master of calligraphy, and there is the Japanese saying that goes "Even Kobo's drawing brush slips" (meaning nobody is perfect).

合体の像

Statue of Union
また、弘法大師は現在の乙訓寺の本尊になっている八幡明神と弘法大師の合体の像を造ったんだって。「合体像」なんていうとさ、なんか、ロボコップみたいだけどさ、ある日、弘法大師が自分の像を彫っていたら、いきなり八幡大神がお爺さんの姿で現れて、いっしょに合体の像を作らないかってことになって、八幡大神は弘法大師をモデルにして肩から下の部分を作って、大師は八幡大神をモデルにして首から上を作って、二人別々に作ったのに後で合わせてみたらピッタリ合体したらしいわよ。ふ〜ん、すごいわねえ。どんな像かしら、見てみたいわね。でも、残念。この像はご秘仏で、一般には公開されていないんだって。見るな、見るなって言われると見たくなるのが人情よね〜。

The statue, the principal image of worship at the temple, has the images of a deity named Hachiman and Master Kobo incorporated into a single figure. A legend says: When the master was carving his own image, the deity appeared in a figure of old man and proposed a joint sculpture. The old man carved the bust of the master while the master sculptured the head of the deity respectively. Later when these two separately-elaborated parts were put together, they matched perfectly into a single statue without a millimeter gap. The statue is handled as a holy of holies and kept unseen for public eyes.

毘沙門天像

Vaishravana Statue
その他、国指定の重要文化財にもなっている毘沙門天(びしゃもんてん)像を刻んだのも弘法大師。毘沙門天っていうのは、四天王の一人で多聞天とも呼ばれるんだって。四天王っていうのはさ、仏教の守護神でそれぞれ東西南北を守ってくれる神さまなのよ。で、この毘沙門天は北の方角を護ってくれるってわけ。アンタの家ってどの方向?

その他、弘法大師は境内に実るみかんを朝廷に献上したりしたらしいわ。えー?みかんなんて珍しくもなんともないじゃんなんて思ったら大間違いよ、アンタ。当時はさ、西域から渡ってきた珍しい果物だったのよ。

Also carved by Master Kobo, the Vaishravana (the Big Hearer) statue enshrined here is listed as a National Important Cultural Heritage. Vaishravana is one of the Four Heavenly Kings, Dharma protectors of Buddhism who guard the four cardinal directions of north, south, east and west. Vaishravana is the protector of the north.
Mandarin Oranges
Brought from the Western Regions (Xiyu), mandarins were rare delicacy in those days. The master planted the trees in the garden and the fruits were occasionally offered to the Imperial Court.

寛平9年(897年)
宇多天皇が譲位。以後、乙訓寺を行宮とする。

Year 897
Emperor Uda abdicated the throne. The temple was assigned as the emperor's provisional palace.
行宮(あんぐう)ってのは、天皇が外出したときの仮の御所ってことでさ、言ってみれば別荘のようなもんね。いいわねえ〜、天皇って。ホテルなんか予約しなくていいしさ、アタシも行宮が欲しい!

宇多天皇は引退して「法皇」になってたから、この乙訓寺も「法皇寺」って呼ばれたんだって。

The temple was used as a place where the retired emperor would stay during his excursion away from his residence. As the emperor became a Dharma Emperor (ordained into priesthood) after his retirement, the temple began to be called "the Dharma Emperor Temple".

永禄年間(1558〜1569年)
織田信長の兵火によって焼失。

Years 1558 to 1569
The temple was burned in a war.
ほんと、何すんの?って感じよね、織田信長って。

A war fire caused by Oda Nobunaga, a warrior lord, destroyed the temple.

元禄6年(1693年)
五代将軍の徳川綱吉が堂宇を再建。

Year 1693
The 5th Shogun Tokugawa Tsunayoshi reconstructed the temple.
時代は江戸時代よ〜っ。将軍の祈祷寺だったお寺に江戸護持院というのがあってさ。そこの住職だった人に隆光(りゅうこう)ってお坊さんがいたんだけど、この人が自ら希望して乙訓寺の住職になったのね。で、この人は綱吉の大きな信任を得ていたので、乙訓寺を復興しようってことになったわけ。ここで、乙訓寺も「真言宗」に改められ、堂宇(お堂の建物のこと)も再建され、乙訓寺法度(はっと)も制定、徳川家の祈願寺にしたんだって。

ところでさ、隆光って言えば、綱吉に助言してあの「生類憐れみの令」を作らせたことで有名よ。アンタ、知ってた?「お犬さま」とか呼ばれてさ、犬とかの動物が大事にされた時代よ。動物愛護がエスカレートするとこんなことになるのかもよ。なかにはほっぺたに止まった蚊を殺しただけで切腹なんて話もあったみたいだけど、そういった話はみんなでっち上げで信憑性がないという説もあるみたい。あるいは、一般人には適用されなかったとかいう意見もあるようだし…。ま、わかんないけど、ひょっとして、その時代に生まれてればアタシも「おカラスさま」とか「おハトさま」なんて呼ばれてたかも。

てなわけで、長い歴史の舞台になった乙訓寺、それ以後は、明治時代の廃仏毀釈とかの影響で苦難の時代を経験し、現在に至るってわけ。

In the Edo Period (1603 to 1867), the temple was reconstructed by Ryuko, the chief abbot of Edo Goji-in (a temple in charge of soliciting prayers in favor of the shogun), who voluntarily assumed the role of administrating Otokuni Temple. He was greatly trusted by the shogun, who entrusted him with the reconstruction of the temple. At this occasion, the temple was officially denominated a Shingon temple and the special law regarding Otokuni Temple was enacted. The temple was assigned as a Tokugawa family's wish fulfilling prayer conductor.

Shogun Tsunayoshi is famous as the Dog Shogun for his enacting the law to prohibit killing animals. Some records say the offenders of the law were severely punished usually by death, but other records say all of such episodes are rootless and the law was never actually applied to commoners.

After going through the hard time caused by the movement to abolish Buddhism in Meiji Period (1868 to 1912), the temple has survived as it is today.

牡丹(ぼたん)の寺

The Temple of Peonies
てなことで、歴史の勉強の後はお花見。でもさ、アンタ、おにぎりとかビールとか飲み食いはダメよ。牡丹の季節は4月中旬から5月中旬。今年行けなかったアンタ、来年もあるわよ。でもってさ、ここの牡丹、全部で2000株くらいあるんだって。

Peonies are in full bloom in late April to early May, flamboyantly decorating the entire garden. Around 30 species and 2000 roots of peonies are planted here.

その他

Extra Plus
ああ〜、きれいねえー。牡丹もこれだけ見るとクラクラするわね。そんなとき、ちょっと目を休めてコレ。釣鐘なんか眺めて見るのもいいわよ。この乙訓地方では、春になれば「筍(たけのこ)」。門を出たとこでも売ってるからお土産に買って帰るのもいいわよ。釣鐘と筍とどういう関係があるのかって?あ、いけない、いけない。釣鐘をよ〜く見るとさ、撞木(しゅもく)って言うんだけど、鐘突き棒が竹でできてるのよ。面白いでしょ。

でね、牡丹の畑にさ、番傘(ばんがさ)がいっぱいあるの。これはさ、直射日光や雨とかを避けて花を長持ちさせるっていう目的みたいよ。牡丹ともなると、そこら辺の野生のタンポポみたいに逞(たくま)しくないってことね。

さあ、花見に疲れたらちょっと一服。冷たい甘酒でもどう?この季節だけかもしれないけど、筍の煮付けをつまみに冷たい甘酒、熱いお茶。あ〜、風流ねー。

Other notable features of the temple are the belfry with a bamboo-made bell striker (usually made of wood) and oil paper umbrellas placed in the peony fields serving as a shield to protect the flowers from strong sunshine or rain.

For a refreshing break after intensive flowery viewing, a cup of cold Amazake (sweet fermented rice drink) is served for a charge, together with hot tea and a tidbit of bamboo shoots boiled with soy sauce and sugar, at a provisional tea shop. The bamboo shoot is a special product of this region and in the season, it is sold along with other various local food products outside the temple gate as souvenirs.