Last update May 28, 2021

ローマを築いたラテン人 (1)

ラテン・フェスティバル――結束の証明

まだローマが一都市だったころから、毎年冬になると行われていた祭りがありました。それが、「フェリアエ・ラティナエ」 (Feriae Latinae = Latin Festival) です。

ローマの南西アルバン丘陵 (Alban Hills) にあるカーヴォ山 (Monte Cavo) において4日間続くこの「ラテン・フェスティバル」には、神々と人間のつながりを深めるという本来の目的以外に、ラテン族の村落が集まって結成された「ラティウム同盟」 (Latin League) の結束を強める意味もありました。それだけに重要な祭事だったのです。

それぞれの部族からは羊やチーズなどいろんな供え物が集められ、ローマの執政官 (consul) がミルクを捧げ、清らかな白い牛を生贄いけにえとして捧げます。また、オッシラ (oscilla) と呼ばれるマスクや顔をかたどった飾りを木々からぶら下げて祭りを祝いました。

祭りのなかではさまざまな宗教儀式が行われましたが、1つ1つに正確さと厳粛さが要求されます。万一その手順に間違いがあれば、また一からやり直しでした。執政官たちも、祭りが終わるまでは地元を離れることはできません。この祭りは、ローマが共和政 (Roman Republic) になり、帝政  (Roman Empire)  になってからも続けられますが、紀元前217年にローマがカルタゴ (Carthage) と戦って負けたのも、軍を率いる執政官フラミニウス (Gaius Flaminius Nepos) が「ラテン・フェスティバル」をおろそかにしたことが原因だと言われていたようです。

ラテン人のルーツ

そもそも「ラテン人」というのは、特定の人種をさすのではなく「ラテン語を話す人々」という意味です。そして、その「ラテン語」とは、インド・ヨーロッパ語 (Indo-European languages) から派生したイタリック語派 (Italic languages) に属する言語です。さらに、ラテン語の latus という言葉は「広大な」という意味で、Latini は「平野の人々」という意味になり、山地の多いイタリア半島において、彼らの住んでいた土地「ラティウム」 (Latium) が平野部にあったためそう呼ばれたのかもしれません。

さて、そのラティウムはどこにあったのかというと、現在のローマ周辺の地域にあたります。歴史学的に、ローマが勢力を拡大し領土を広げてからの「ラティウム」を「新ラティウム」 (New Latium) または「ラティウム・ノヴム」 (Latium Novum)、それ以前の「旧ラティウム」 (Old Latium) を「ラティウム・ウェトゥス」 (Latium Vetus) と呼んで区別しています。イタリア半島にインド・ヨーロッパ語族の人々が移り住むようになったのは、青銅器時代 (Bronze Age) 後半だと言われていますが、ラテン人のルーツとされるのは、紀元前1000年ごろの鉄器時代 (Iron Age) になってから旧ラティウムに住むようになった人々だとされています。

では、ラテン人はどんな文化を持っていたのでしょうか?まず、イタリア半島にやってきたインド・ヨーロッパ系の人々の文化は、中央ヨーロッパの骨壺墓地こつつぼぼち文化 (Urnfield culture) の一部であるプロト・ヴィラノヴァン文化 (Proto-Villanovan culture) とされています。

なんだか気味の悪そうな文化ですが、「骨壺」というのは文字どおり死者の骨を入れた壺のことで、人々は火葬を行い、その灰を装飾を施した壺に入れて埋葬したわけです。西洋では、今でこそ火葬はあまり行われませんが、キリスト教以前の風習では決してめずらしいことではありません。そして、この文化からラティウムに住む人々のラティウム文化 (Latial culture) に発展していきますが、ヴィラノヴァン文化では2つの円錐形を上下に底で合わせたバイ・コーン (bi-conical) の形をしていた骨壺が使われていました。それがラティウム文化になると、人々の住んでいた家をかたどった円形の小屋型の (hut-urn) 壺( CHECK )になっています。これは、他のイタリック語族の部族には見られないラテン族特有の特徴です。

ちなみに、その時代の人々が住んでいた家は、数本の木の柱が立てられた部屋が1つあるだけのもので、屋根はわらき、小枝を編み合わせて土を塗っただけの壁からなる質素なものでした。この住居様式は、紀元前650年ごろまで使われていたようです。

さて、紀元前650年になると、ラテン人の住む(旧)ラティウムも、これまでのような村集団から徐々に「都市国家」へと発展していくことになります。紀元前6世紀には、人々の会談や会合の広場としてフォロ・ロマーノ (Roman Forum) の整備が始まります。

ローマの建設

ローマの建設については伝説があります。その昔、ロムルス (Romulus) とレムス (Remus) という双子の兄弟がいました。彼らは、滅亡したトロイアから逃れ、ラティウムに国を建国したアイネイアース (Aeneas) の直系でしたが、王座をねらう邪悪な叔父によって赤ん坊のころティベリス川 (the Tiber) に流されてしまいます。しかし、岸に流れ着いたところを狼に救われ、羊飼いに育てられ、長じて王政ローマ (Roman Kingdom) を建国したというのです。

もちろん、伝説ですから真偽のほどはわかりません。近隣のギリシア人の影響もあって、このような伝説が作り上げられたものと思われますが、やはり「伝説」や「神話」があるというのは、それだけ文化の深さを表していると言えます。

それはさておき、ラテン集落のなかで最大の領土を持っていたのは「ローマ」という集落でした。そのローマが発展し、紀元前7世紀ごろパラティーノの丘 (Palatine Hill) に王政ローマが建てられます。しかし、紀元前509年になると、タルクィニウス・スペルブス (Tarquinius Superbus) 王が、息子の不祥事をきっかけに民衆により追放されるとともに終焉しゅうえんをむかえ、共和政ローマ (Roman Republic) が始まります。


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